【寄稿】「当たり前」の受験をやめる勇気(1) 既に決まっている2020年教育改革の”失敗”





※この記事は2019年2月にハチ東京の名義でnoteに投稿されたものです。

私は、関西の田舎に生まれ、青春をそこで過ごし、そして大学から晴れて夢だった東京に進学した。だが、喜びもつかの間、その後、地方の育ちと東京の育ちの格差を何度も味わうことになる。東京には地方にいたのでは気づかない、見えない壁がそこにはあり、その壁に何度も苦しめられ続ける。

そう遠くないうちに到来する、AI/ 人工知能の技術がもう少し発展した暁(これをAI時代と呼ぶ)には、今ある仕事の多くが無くなり、たくさんの人が仕事を失うと言われている。
そして、来るAI時代を見据え、2020年に向けて日本の教育制度は大きく改革されることになっている。
私は最近、そういったAI時代のど真ん中を生きる子供のためには、東京以外の地方に生まれたとしても、大学から東京に進学では遅すぎ、中学から都内進学校に進学させることが必要だと強く感じるようになった。

どうしてそう思うようになったのか、今日から3回にわたって、このnoteに私の考えを書いていこうと思います。

第1回:既に決まっている2020年教育改革の”失敗”(★)
第2回:”見えない壁”に阻まれた 地方と東京の圧倒的格差

第3回:それでもAI時代に輝く、都内進学校の”文化資本”と”ネットワーク”

※文章中で触れられる都内進学校とは、筑駒/ 開成/ 麻布/ 筑附など、自由闊達な校風と比較的高い偏差値を持つ中学/ 高校のことを指します。

1.はじめに

毎年この季節になると受験の話題がニュースなどで取り沙汰される。受験は非常にお金が掛かる。教材、塾、家庭教師etc…。自分の生活だって満足に出来るわけではない。それでも子供を受験に向かわせるのは、いつだって自分の人生を振り返り、自分の子供にはもっといい人生を送って欲しいという親の愛と願いからである。

しかしながら日本の経済の先行きは薄暗い。世界的な経済事情の回復や法人税減税なども相まって、日本企業の収益は非常に高い水準にある。だが、そのすぐ後ろには世界的に圧倒的強者となったGoogleやApple、そして中国勢といった企業が迫り、従来日本企業が強かった領域でさえ目の前で駆逐し始めている。

また、いくら日本企業が高収益を上げていると言えども、一生懸命働く人たちの全く給料は上がっておらず、リーマンショック後とそう変わらない人員体制で2倍の業務を残業でひいひい言いながらこなしているのが現状である。

こういった現状を見ていると、果たして日本企業に未来を任せていて大丈夫なのかと不安な気持ちになる。ここ最近では就活市場で大企業の人気は衰えつつあり、ベンチャーへの就職やごく稀に起業する学生も出てきていると聞くが、中途半端な企業に入ったり、よくわからない産業や技術で起業しても、本当に子供が成功するのか、正直なところ親は不安である。

更に、メディアではAIやIoTやら新しい技術が持て囃され、「破壊的変化」を彼の企業群が起こし、「AI時代」には多くの今ある仕事が無くなると言われている。自分たちはまだいいが、子供たちはその「AI時代」のど真ん中を生きて行く。我々親世代が全く予想だにもつかない「AI時代」を生きる子供たちに、私たちがしてあげられることは何なのであろうか?
私は関西の田舎に生まれ、青春をそこで過ごし、東京の大学に進んだが、その後、地方と東京の格差を何度も思い知ることになる。地方にいたのでは気づかない、見えない壁がそこにはあった。

20年前に隆盛を誇った日本企業も(1989年7月はバブル最頂点だったとはいえ)、現在では殆ど世界の時価総額ランキングから消え去り、AI等のテクノロジーを活用したネットワークを持つ米中を中心とした企業群に置き換わってしまった。

2.既に決まっている2020年教育改革の”失敗”

教育改革における2つの大きな世界観

来るAI時代を見据え、2020年に向けて大規模な日本の教育改革が行われていることは子供を持つ親であればよくご存知であろう。

画像はbenesse.jpより引用。

2020年教育改革の中心となる世界観は、大きく分けて2つある。
すごく簡単に言うと、
「知識の”暗記”から”運用”の重視へ」「社会ですぐ使える”スキル”の獲得」の2つである。前者は今までちゃんと教えたことをちゃんと理解し、定着しているのかの確認を大事にしてきたが、これからは学んだ知識を何らかの形で活かす、運用することを重視するものだ。これはかねてから言われてきた内容で、良い改革と考えている。問題は後者のもう一つの世界観だ。

教育改革のもう一つの大きな変化は、これからの時代に要請される能力として、英語とプログラミングに関する素養を持つことを生徒に求めるものだ。確かに、世の中を眺めると、グローバル化はますます進み、国をまたいでビジネスをすることはどんどん普通のことになりつつある。また、PCやスマホが広く普及し、テクノロジーが世界を変え、巨万の富をもたらすことはGoogleやFacebook等の企業を見れば明らかである。グローバルで勝ち抜く日本人を作るために、英語とプログラミングを学校教育で教えることは確かに当然のことのように思われる。

だが、“義務教育課程”で、それらを学習させることは本当に正しいのであろうか?英語教育やプログラミング教育が始まるということは、要は「社会に出た時にすぐに役立つこと」を教えようといった世界観であることを示している。基本的に「社会ですぐ役立つこと」=いわゆる「スキル」である。だが、電車の乗車券のキップ切りのスキルが自動改札機の登場とともに、価値を失ってしまったように、「スキル」は新しいテクノロジーの登場により簡単に陳腐化する。果たして、本当に学校教育において「スキル」を重視した教育を行うべきなのであろうか?

スキル重視の弊害~『STEM教育』を例に

最近よく聞く言葉に、『STEM教育』がある。”Science, Technology, Engineering and Mathematics”の略で、要は科学技術と思考に通じた人材がこれから求められるから、そういった人材を作ろう、といった動きである。 確かにAIが昨今ブームとなっており、実際、そういった人材の代表例である機械学習(AI)エンジニアの給与水準は非常に高いものになっている。

囲碁の世界でAlphaGoに人間がボロ負けしたのは記憶に新しい。しかしながら、AI技術は非常に早いスピードで進化している。そのAlphaGoは人間によって指された棋譜をもとに学習したAIであるが、最近、新たにAlphaGO ZeroというAIが登場したのはご存知だろうか。
新たに登場したAlphaGO Zeroは囲碁のルールだけを与え、学習データは自らがバーチャルでAI同士で対戦して作り出したもので学習し、アルゴリズムを生み出し/ 改善しているAIである。実は人間にボロ勝ちしたAlphaGOも、このAlphaGO Zeroにはボロ負けしている。

この事象は、人間の経験や常識はもはや最適解では無いことに気づかせてくれる。プログラミング技術も、人間の経験や常識に従ってプログラミングするより、AIによる自由な学習によってAIがプログラミングしたほうが効率的だ、という時代が到来するだろう。そういった時代が来たら、人間のエンジニアは殆どお払い箱だ。

このように、スキルは常に陳腐化する。英語だろうが、プログラミングだろうが、結局それは「スキル」でしか無い。「スキル」は新しく登場するテクノロジーによる「破壊的変化」によって、無用の長物にされる可能性が高い。英語だって、確かに喋れるに越したことはないが、精度の高いリアルタイム翻訳が登場すれば、英語能力はそれほど重要な能力ではなくなってくる。「社会に出た時にすぐに役立つこと」を教える=「スキル重視」、といった世界観で貫かれた2020年教育改革は始まる前から既に失敗している、と私は考えている。

考えてみてほしい。世の成功者と呼ばれる人たちは、「スキル」があるから成功しているのであろうか?ソフトバンクの孫さんや、Appleのスティーブジョブズ、ZOZOの前澤さんなど、言い出したらキリがないが、彼らの「スキル」と聞いて思い浮かべることはあるだろうか。彼らが真の成功者足らしめていることは決してスキルではなく、いつの時代も色褪せない、情熱であり、深遠なるビジョンであり、行動力であり、人間的魅力であるのだ。

~第二回「”見えない壁”に阻まれた 地方と東京の圧倒的格差」に続く